みんなちがって、みんないい。(だから私は群れない)

私が Black Lives Matter(ブラック・ライヴス・マター) を静観する理由

Black Lives Matter のムーブメントには、正直乗り切れないままでいる。警官の対応にどんな非があったのか、被害者がどんな人物だったのかなど、事件の真相についてはよく分からない部分がたくさんあるので、適当な意見を述べることは差し控えたいと思う。

でも、もしも警官がアジア人だったら、または被害者がアジア人だったら、ここまでセンセーショナルに取り上げられたのだろうか?白黒の二極対立思考には、黄色は登場するのだろうか?イエローの命は白人や黒人の命と同様に大切だと思われているのか?(ここでは、アジア人同士の差別については一旦置いておく。それは、「似ているのに違う」という同族嫌悪、または隣町の中学校に対する敵対心と同じだ。)

IT業界から「ホワイトリスト・ブラックリスト」という用語が消える?

Kevin MorisonによるPixabayからの画像

つい最近、IT ネットワーキングの会話の中で「ホワイトリスト・ブラックリストという言葉はやめよう」という議論を聞いたとき、その意味が分からなかった。その真意を理解したとき、自分の問題意識の無さを反省するとともに、「マジかよ」とも思った。発端として、「Whitelist = Allow(許可)、Blacklist = Deny(拒否)」という用語は「白人 = Good、黒人 = Bad」を想起するから使うのをやめるべきでは、という意見がイギリスのサイバーセキュリティー機関に寄せられ、満場一致でその意見が取り入れられることになったのである。もちろん、この変更によって人々の心に平穏が訪れるなら良いことだ。ただ、「白人にとっても黒人にとっても何とも生きづらい世の中だなぁ」というのが、この話を聞いた私の正直な反応だ。

良くも悪くも差別問題には疎い日本人

日本人が想像する肌色

日本は(ほぼ)単一民族であり、「はだ色」が日本人の平均的な肌の色を指すような環境である。最近になって「肌色」という色名称は使われなくなったらしいが、日本人が人種差別問題への関心が薄いことを示す例だと思う。しかし、あなたの近くに肌の色が違う人がいたとして、珍しいのでジロジロ見てしまったり、逆にたじろいでしまうことはあっても、自分より劣った存在だと思うだろうか?戦国武将の織田信長は、ポルトガル人が連れてきた黒人奴隷を珍しがって、武士の身分を与えて自分のそばに置いていたくらいだ。信長が何を考えていたのかは知らないが、少なくとも「黒人」は嫌悪すべき存在ではなかったと考えるのが妥当だろう。そして「黒人は野蛮だから奴隷にしても構わない」という理論の野蛮さよ。

かつてはオーストラリアでも「白豪主義」が存在した。現在は、政府が過ちを認める形で原住民(アボリジニ)に対して金銭的な支援をしており、非白人への人種差別的な態度は非難される。でも、人種差別が無いかと言ったら、全くそんなことはない。差別的な思想をもつ親を持つ子はその思想を植え付けられるし、「白人であること」しか誇れることがなければ、このクソみたいな人生は移民が仕事を奪ったからだと他責的な思考に至るだろう。

この世界は白黒ハッキリしてない

オーストラリアの場合は、人種に加えてLGBTの問題にも非常にセンシティブである。性自認(自分は男性か、女性か、どちらでも無いか)と性的指向(男性を好きになるか、女性を好きになるか、どちらも好きになるか、あるいはどちらも好きにならないか)の全てのコンビネーションに対して寛容でなければならないという社会的な圧力があるとも言える。オーストラリアはLGBTフレンドリーな国だが、個人の思想はそれぞれであることも忘れてはいけない。敬虔なクリスチャンの家庭に生まれ、両親にゲイをカミングアウトしたら勘当されたという人を目の前にしたこともある。しかし、そんな人を支援する団体も存在する。さすがLGBT先進国である。 

人間は白人・黒人だとか、男と女という二極に分けることはできない。人の肌はそもそも無彩色ではないし、性別も平面的な、またはそれよりも多次元のグラデーションとして存在している。それなのに、何となく「こっち側」と「あっち側」で考えてしまいがちなのは、そのやり方は簡単で、分かりやすいからだ。数学のグラフだって、変数が増えると計算式もどんどん複雑になっていく。何だかよく分からないこの世界の問題を理解するために、70億人を「白」と「黒」で分けてみたり、「男」と「女」で分けてみたりするのである。

自分から見た「わたし」と他人から見た「わたし」は違う

しかし一方で、事実は事実として存在することも忘れてはならない。誰もが唯一無二の存在であることはその通りなのだが、私の肌の色が「白人」よりも白かったとしても、私は「白人」ではないし、性転換の手術をしたところで、生まれ持った染色体の組み合わせは変えることができない。

あなたが自分のことを「このような人間である」と考えていても、他の人から見たらそのようには見えないこともある。そのことに腹を立てても仕方がない。私だって、自分が男性だったら良かったと思うことは度々あるが、女性であることは、このご時世では結構強力な武器ともなり得る。女性であるという一点だけで、男性優位の社会では一歩有利となることが多いし、少なくとも私はその恩恵を最大限受け取ってきたと思っている。男性的だと考えられてきた要素を多く持つ女性、すなわち「限りなく男性に近い女性」が、これからの社会で台頭してくることは間違いない。このように、世の中は考え方一つである。

線を引くから対立する

ところで、社会的マイノリティがコミュニティを作って声を上げるのはとても立派なことだと思うが、私は「同じだから」という理由で人が集まって何かをするというアイデア自体にあまり魅力を感じない。コミュニティの形成・所属は、社会的動物である人間にとって自然な行為だと思う。自分がどこかに所属していると安心できるし、そのコミュニティが「強い」ほど、自分も強くなったような気がして気分がいい。

だが、何もかもが錯覚である。あなたと私が「同じ」であるわけがない。私たちは「こっち側」なのだと認識することに何の意味があるというのだろうか。「味方」は敵なしには存在しないし、「仲間」は除け者なしには存在しない。

おわりに

幻想に群れるな。違いに歓喜しよう。みんなちがって、みんないい。Your life matters.

英国家サイバーセキュリティセンター、用語「whitelist」「blacklist」を使用中止へ
Terminology: it’s not black and white

「ただしつけもの、テメーはダメだ」

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