再現性のない個人の体験を知ることに意味はあるのか

あなたの全ての人生体験において、カギを握っているのはあなたがいる環境、そして周りにいる人々です。どんなにハウツーを学んだとしても、誰かと同じ体験ができるとは限りません。だから、自分のブログを通して(私が大好きな)メルボルンを他の誰かに勧める気になれなくて、どうしたものかと思っていたのです。

メルボルンの素晴らしさは、出会ってきた人々のことを語らずに伝えることはできません。でも、あなたがその人たちに出会ったとしても、同じ物語は紡がれないでしょう。私が持つ思い出の数々は、私自身と強く結びつきすぎているからです。つまり、たとえ同じ場所にいても年齢や性別、容姿、性格などによって、見えてくる世界が全く異なるということです。

たとえば天気が変わりやすいメルボルンで、心配性なあなたはいつも折り畳み傘を持ち歩いています。よく晴れた朝の日、あなたは無防備にも傘を持たずに出かけてしまいました。案の定、午後に差し掛かる頃にはザーザーと雨が降り出して、仕方なくあなたは雨音が落ち着くまでの間、小ぢんまりとした個人経営のカフェに入ることにします。いつもは素通りしていたそのお店はとても居心地がよく、最近は開くことが少なくなった英単語帳をカバンから取り出す気にさせるのでした。オーダーしたカプチーノがテーブルに運ばれてきたとき、店員さんがその英単語帳に書かれた日本語に気づいて「コンニチハ」とあなたに話しかけます。日本のアニメが大好きで、高校生の時代には日本語の授業を取っていたのだと言い、あなたに “Enjoy your coffee” と笑顔で言いながら戻って行きました。

こんな1日があったとして、もしあなたがこのカフェをブログで紹介したところで、実際そのカフェへ足を運んだ他人があなたと同じ気分を味わえるはずがありません。それでも、自分の経験を誰かに伝えることに何らかの意味があるとしたら、今ぼんやりと、「日本から離れて生活をしてみたい」と思っている人たちにリアリティを与えるという一点だと思います。よく云われるように、「想像することができれば、実現することができる」ということです。自分と同じくらいの年齢の人の何気ない一日に自分自身を重ね合わせ、現実とのギャップを埋めようと行動することで、誰かにとっての夢(=メルボルンでカプチーノを飲みながら店員さんと英語で会話を楽しむ)が現実となる。そうであるならば、情報は詳しければ詳しいほど良く、個人の体験を追体験できるくらいディテールにこだわった表現で書き記すことにも意味があると言えるのかも知れない…と考えたところで何となく自分の中で納得感が出てきたので、ここで終わりにします。

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